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プレゼント



目の前に急に現れた初対面の女の子が、緊張した面持ちで「30分だけ、恋人になってください」なんて言い出したら、いったいなんて答えればいいのだろうか。
もちろん、「忙しいから」と言って、断ることもできるだろう。
だいたい、急にそんなことを言い出すなんて、何者なんだ? 逆ナン? 何か事件に巻き込まれる? もしかしたらちょっとキちゃってる子、なのかもしれない。係わり合いにならないほうが無難だろう。
だけど、彼女のせっぱつまった形相に、僕は思わず頷いてしまった。
頷いてしまった後にものすごく後悔したのだけど、彼女はぱぁっと表情をほころばせていった。
「ありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げる。
ちょっと、かわいい子、かもしれない。白いコートに白いマフラーを巻いた、おかっぱ頭の女の子。僕もつられて、ぺこりと頭を下げる。彼女もまた頭を下げる。
道の真ん中で、ぺこり、ぺこり。おかしなふたりだ。
ところで。
「30分だけの恋人って、何をすればいいんですか」
彼女は、目をパチパチと瞬かせた。
「……考えてませんでした」

温かな湯気をたてているコーヒーをはさんで、僕たちは向かい合わせに座っている。
「ここじゃあなんだから」
そういって、彼女は僕を近くのマックまで引っ張ってきた。そして、勝手にコーヒーを頼んで、僕にくれた。ありがたいけど、僕はコーヒーが飲めない。とりあえず、手を温めるのに使う。
「まずは、呼び方を決めなきゃならないですね」
そこからですか。
ぽかんとしている僕をよそに、彼女はコーヒーをふぅふぅと吹いて、笑顔を見せる。人懐っこい目をした子だ。
「クン付けで呼ぶのが好きだなぁ、あたしは」
さっきはあんなにせっぱつまった顔をしていたのに。
不思議な気持ちで、僕は彼女を見た。どこかで逢ったことがあるだろうか。くるくると巻いている白いマフラーもそのままに、彼女は小首をかしげている。知らない子、だよな。初対面だ。不思議な子だなぁ。
どういうつもりなんだろう。でもとりあえず、ここまで来た以上、30分はつきあわないと。
とりあえず、自己紹介、しておかなきゃ。
「決めた。みーくん、って、呼びます」
え。
名前を言う、直前だった。彼女が突然、言い出した。
なんで? 偶然、僕の苗字は「宮本」だけど。知っているのか。それにしても、そんな呼び方は初めてだ。
君は、いったい?
「じゃあみーくん、そろそろ行こうか」
戸惑っている僕を尻目に、彼女は立ち上がる。そして、人差し指をたてて、そのまま僕に突き出す。
「30分は短いよ。急がなくちゃ」

店を出ると、彼女は僕の右手をきゅっと握ってきた。
「ごめんね、みーくん。コーヒー飲めないんだね」
「あ、いや、僕が言わなかったから……」
ちょっと緊張して、右手が汗ばんだ気がする。
完全に、彼女のペースだ。これからどうするのか、どこに行くのか、僕は何も知らされないまま、彼女のおしゃべりに返事をしている。周りから見たら、こんな僕らでも初々しいカップルに見えているのだろう。女の子にリードされている、オクテな男。そんなんじゃないのに。
犬より猫が好き。色は白がいちばん好き。コーヒーよりもココアが好き、特にこんな寒い日には。マシュマロを浮かせたらおいしいよね。季節は冬が好きだなぁ、寒いけど。彼女の話は止まらない。白い息を吐きながら、とりとめのない話をどんどん続けて、僕はただただ頷くばかり。でも、訊きたいことは僕にだってある。
「名前、なんていうんですか」
彼女の話が途切れた隙に問いかけた。
「みーくん、だめだよ」
「ハイ?」
「恋人なんだから、敬語はだめだよ」
いたずらっぽい目で僕を軽く睨むと、人差し指でバツを作って見せた。
そしてまた僕の右手をつなぐと、言った。
「すかーれっと・おはら」
「え?」
「名前。訊いたでしょ?」
すました顔をしている彼女を見て、僕は吹き出してしまった。
何を言ってるんだか。
「そんなわけないだろ。なんて呼べばいいんだよ」
「みーくんの好きに呼んでいいよ」
好きに、か。
僕も名前を名乗らないまま、勝手に「みーくん」なんて呼ばれていたんだっけ。
名前なんかどうだっていいか。たった30分のつきあいだ。
「それより、みーくん。急がなくちゃ。時間がないよ、たどり着けなくなっちゃう」
僕の手を引っ張って、走り始める彼女。
僕は、元気のいい犬の散歩をしているような気持ちで、小走りで後をついていく。
たった30分。そう思うと、なんだか手放すのが惜しいような気もする。彼女の話す、とりとめのないこと、一晩眠ったら忘れてしまうようなどうでもいい話に耳を傾けながら、僕は彼女を見ていた。笑うと覗く八重歯や、軽い癖のある前髪や、寒さで淡いピンク色に染まった耳朶や、そんなものを眺めていた。
「到着」
彼女が足を止めたのは、街のシンボルタワーの前だった。
見慣れたそれは、クリスマス前のイルミネーションに彩られ、キラキラと輝いていた。きれい、と呟いて見上げる彼女の目も、同じようにキラキラと輝いていて、僕は思わず握られた右手を強く握り返した。
「ここに、来たかったの?」
「うん、みーくんと一緒に、見たかった」
さっきまでずっと喋り続けていたのが嘘のように、彼女は黙っている。
心地よい、沈黙だ。
「寒くない? 中、入る? 上にのぼってみる?」
彼女はあるかなしかの微笑みで、首を横に振る。
「上につく前に、30分が終わっちゃう」
「別にぴったり30分じゃなくても……」
彼女は黙って首を振る。そしてまた、タワーを見上げる。
彼女の視線を追うと、いやでもタワーの時計が目に入る。
30分だけ恋人になってくださいと言われたときから、もう25分が経っていた。
あと、5分。
体が冷えてくる。吐く息が白い。つながれた右手だけが、僕のものじゃないように温かい。
そのとき、空から、贈り物。
ふわふわとした雪が落ちてきた。
ゆっくりと落ちてくるそれを見上げていると、自分が宙に浮かんでいくような、不思議な気分になる。
「幸せだなぁ……」
彼女の口から、雪よりも白い息とことばが漏れてくる。
僕は訊き返したかったけれど、やめた。僕も、不思議な幸せを感じていた。
今まで経験したことがないし、もうこれからも経験することがないかもしれない、不思議な、だけど確かに、これもひとつの幸せなんだろう。
何も知らない、何が目的なのかもわからない、この女の子に振り回されて。でも今右側にいるこの女の子のことを、本当の恋人のようにさえ思っていた。それほどに、右側のぬくもりを愛しく感じている。「みーくん」という呼び方さえ、耳慣れたものに感じているくらいに。
一緒にいるのは、たったの30分だというのに。
「ねえ、みーくん」
「ん?」
「目、つぶって」
もしかして?
だけど、こんなところで?
期待と照れくささとでどきどきしながら、僕は言われたとおり目を閉じた。
そんな僕の耳に届く「絶対、目開けちゃだめだよ」という彼女の声、それから微かなシュッという音と、広がっていく甘い香り。
「何?」
「魔法をかけたの。きっとみーくんは、今日のことをすぐに忘れる。忘れていいの。だけど、この香りをどこかで感じたら、今日のことを思い出す。そのときはいつも、笑っていて?」
30分間、ずっと右側にあった甘い香り。
今は僕の周りを取り巻いている。ふわふわと。彼女の白いマフラーのように。
「目、開けてもいい?」
返事はない。
目を開けると、彼女はもういなかった。タワーの時計を見上げると、30分が過ぎていた。
雪も止んで、甘い香りも、いつの間にか消えていた。

夢だったのかもしれない。
あの日、確かに僕の右手は、温かかったような、気がするけれど。

それから1年。
今、僕にはつきあって3ヶ月になる女の子がいる。
いつも遅刻しがちな彼女を、待ち合わせた店の前でぼんやり待っているうちに、ちらちらと雪が降ってきた。
僕は白い息を吐きながら、もうすぐ駆けてくるはずの小さな体を思い出していた。
「ごめんね、また遅刻しちゃった」
ほら、ね。
僕を見つけて、まっすぐに走ってくる笑顔。これが見たくて、僕はいつも彼女を待っているんだ。
「今日はどうしようか」
「う~ん。どうしよう。しんちゃんはどうしたい?」
「じゃあ、イルミネーションでも見に行こうか」
僕は、彼女の右手をとって、歩き出す。
もうすぐクリスマス、街はキラキラとした灯りに彩られていた。道を行くどのカップルも、幸せそうに笑っていた。僕たちもきっと、そう見えているのだろう。彼女がうれしそうに「一緒にイルミネーションを見るのが夢だったの」なんてかわいいことを言うから、ついつい僕も笑顔になる。
風が少し強くなってきたから、僕たちは歩くスピードを少し速めた。僕たちはとりとめのない話をして、笑い合った。白い息が弾む。つないだ手が温かい。
15分くらいで、街のシンボルタワーの前に着いた。展望台から見下したら、灯りのともった街並みがきっと綺麗だろう。
カップルだらけのざわめきのなか、イルミネーションで縁取られたタワーを見上げる。
キラキラした光、ふわふわした雪、大好きな女の子。
心がしんとする。
僕たちだけ、雑踏から切り離されて、空に浮かんでいく気分だ。
「幸せだなぁ」
ふと呟いたときに、僕の周りをやわらかく、甘い香りが取り巻いた。
耳の奥に、声が届く。「みーくん」。
僕ははっとして、周りを見回す。
なんで今まで思い出さなかったのだろう。今日はあの日と、こんなにも、似ている。
あの不思議な女の子が僕の右側にいないだけだ。
笑うと覗く八重歯や、軽い癖のある前髪や、寒さで淡いピンク色に染まった耳朶や、タワーを見上げてキラキラと輝いていた瞳や、いろいろな彼女が記憶の箱の中から溢れ出してくる。彼女がかけた魔法。僕にかかっている、とけない魔法。甘い香りで開く、記憶の扉。
どこにいる? どこかで僕を見ている? あのとき、急に目の前に現れた、せっぱつまった表情。真っ直ぐに僕だけを写していた、あの日の彼女。
急にキョロキョロし始めた僕のことを、彼女が不思議そうに見上げた。
「しんちゃん、どうかした?」
いない。いるわけない。いや、もしいたとしても。
僕は彼女の右手を、しっかりと握る。
「何でもないよ。中、入ろうか。寒いし」
笑顔の彼女の手を引いて、中に入る。
僕はこうやって幸せにしている。笑っているよ。君はどうだい?
街のどこかからまた不意に飛び出してきそうな気もするし、もう二度と会えないような気もする。
また少ししたら、あの日のことはまた記憶の箱の中に閉じ込められて、思い出せなくなる。だけど、あの香りをどこかで感じたら、きっとまた懐かしく思い出すんだ。忘れたりしない、どこにいても、誰といても。思い出しては、不思議な出来事に微笑んでしまう。いつだって幸せでいなくちゃ、と思う。それこそが、君がかけてくれた魔法だと思うから。名前も知らない君がくれたプレゼント。この魔法は、いつまでも、とけない。

あの日、上ることができなかった展望台に、僕たちは行った。
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すみっこが折れてて、いつから貼っているのかもわからないけど、そのなかの「風とともに去りぬ」のビビアン・リーが、暖房の風に揺れて、僕を見て、微笑んでいた。



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そして夏休みも終わって、前と同じような生活が始まった。
あれから3ヶ月。吉田佳奈とも甲斐とも話すことはない。
違うグループのやつらと適当に楽しく話し、適当に楽しい学生生活を過ごしている。
バイト先の女の子とは、夏休みが終わってからは会っていない。でも、寂しいともなんとも思っていない。
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そんなことを考えながらぼんやり歩いていたら、壊れた傘を手にした甲斐とばったりでくわした。
「あ……」
思わず、呼び止めてしまった。
甲斐は怪訝な顔で、俺を見た。
「雨、結構強そうだけど、その傘で大丈夫か」
「ああ、今日、自転車なんだ」
「大丈夫かよ。気をつけろよ」
どうにか、当たり前の会話をした。
でも、本当に言いたかったことは、言わなかった。
おまえ、本当にこれでいいのかよ
もし訊いたら、なんて答えるのだろう。
別にいいよ
きっと、そんな返事だろう。
当然、俺には答えたくないだろうし。
本当は今も吉田佳奈のことが好きなくせに。何もしないで。
……何もしないのは、俺も一緒か。
それにしてもひどい雨だ。むしろ、濡れて帰ったほうが、すっきりするかもしれない。雨のシャワーみたいなものだ。
くだらないことを考えて靴を履き替えていたら、吉田佳奈と会ってしまった。
「……菊池くん」
手には赤い傘。
あの日と同じ、赤い傘。
見たら、急に意地悪な気持ちが芽生えてきた。
ここで甲斐の名前を出したら、どうなるだろう。
嫌がられようがなんだろうが、どうせ今更、笑顔を見せてくれることもないわけだし。
「さっき、甲斐に会ったよ。壊れた傘、持ってた。チャリで帰るんだって」
「壊れた、傘?」
「あ? うん。壊れたビニ傘……吉田?」
話している途中で、吉田佳奈の顔色が変わってきた。壊れた傘に何かがあるのか。口元に持っていった手が、明らかに震えている。
「おい、大丈夫か? 吉田?」
細い足が力を失ってしゃがみこむ。
確かに意地悪な気持ちにはなったけど、ここまで動揺するとは思わなかったし、ここまでのダメージを与えるつもりはなかった。
「帰れる?」
小さく頷く。差し出した俺の手には頼らず立ち上がる。だけどふらついて、俺の腕にもたれる。
突き放すこともできるだろうけど、でも、俺は吉田佳奈には優しくしてしまう。
それはまだ好きだから、だろうか。
こんな雨の日には、忘れたはずの恋のかけらが胸で疼きだす。きっと、吉田佳奈の胸にも、同じ想いが、別の方向を向いて、疼いているのだろう。雨が好きになったとはにかんでいた、あの日の吉田佳奈。
甲斐の話をしただけでこんなにも弱くなってしまう女の子。こんなにも近くにいるのに、誰よりも遠い。
今までも、これからも、決して俺を振り向かない。
だとしたら。
好きな女の子の幸せをただ願ってあげることも必要なんじゃないか。
もともと俺は、吉田佳奈の笑顔を見たかった、それだけだったはずだ。
その笑顔を取り戻してあげるには、どうすればいい?
「甲斐の家、行こうか」
俺は、吉田佳奈の手を引いて歩き出す。
「さっきチャリで出たはずだから、タクシー乗れば先回りできるんじゃないか」
「菊池くん?」
「そんなにさ、甲斐のことが好きなんだったら、ちゃんと言った方がいいよ。俺、吉田のそんな顔見たくないし」
俺のするべきことがわかった気がする。
ふたりをちゃんと向かい合わせること。
俺が壊したと思うのなら、俺が元に戻せばいい。
だから、ふたりに、チャンスを。
そこから先は、ふたりの問題だ。さすがの甲斐も、ふたりきりで向き合えば、どうにかなるだろう。いや、どうかな? そこまでは責任持てないか。
「待って、菊池くん」
吉田佳奈が、久しぶりにきちんと背筋を伸ばして、俺を見る。
「忘れ物があるの。ちょっと待ってて」

タクシーの中で、俺は、好きな女の子の恋の話を、初めてきちんと聴く。
まるで遠い世界の話で、俺の入り込む隙間はない。
完全に、失恋だ。
だけど心の中に、痛みだけじゃない、穏やかな気持ちが広がっていくのはどうしてだろう。
俺に必要だったのは、完全にふられることだったのか。
そう、最初からわかっていたんだ。吉田佳奈と甲斐は、同じ空気を共有している。俺とは違う。
だけど、わかったからといって、じゃあいいですよあきらめますよというほど、俺はまだオトナじゃなかった。だから、あがいた。泣き叫んで地団太を踏む、コドモみたいなものだった。
好きだけど、だから手放さなくちゃならない。
まだ、俺の左手は吉田佳奈につながっている。この手を放したときに、吉田佳奈は飛び立っていく。
そのまんま飛んでいけばいい。
あしたからは昔のようなあの笑顔で、いてくれれば、それでいい。
今はまだ、胸が痛い。そりゃそうだ、俺だって精一杯好きだったんだ。
タクシーが止まる。甲斐は、まだ家には着いていないようだ。まだ自転車がない。
1本向こう側のサイクリングロードを通っているのだろう。今頃、びしゃびしゃに濡れながら自転車をこいでいる、こんなことになっているとも知らないで。
あのぼーっとしたやつがどんな顔で驚くのか、考えただけでおかしかった。
タクシーを降りて、甲斐が来るはずのサイクリングロードまで引っ張っていき、そこで俺は吉田佳奈の手を放す。
ばいばい、ホント、好きだったけど。
「俺にできるのは、ここまで。あとは自分でがんばれよ」
「菊池くん……」
「ちゃんとつかまえてこいよ」
「ありがと。ごめんね」
「いいよ。俺がやりたくてやったんだし」
ああ、この笑顔だ。俺が見たかった笑顔。俺が守りたかった笑顔。
俺はそのきゃしゃな背中を、そっと押す。友達の仕草で。
走り出していけるように。
振り返らなくていい。まっすぐ前だけ向いて、壊れた傘をさしてフラフラ走る自転車と出会うまで、ずっと走っていけばいい。
頷いて走っていく、遠ざかっていく赤い傘。
俺ができるのは、ここまでか。
だけど、甲斐。オマエだけがあの子の笑顔を守ってやれると思うから、返すだけだぞ。またあの子を泣かせるようなことをしたら、そのときには俺が奪うからな、絶対。
まぁ、ないよな。
しあわせになればいい。俺は見てるから。
好きだったあの笑顔が、思い出に変わるまで。
「やるじゃん、男の子」
背中に、女の子の声がした。
振り向くと、白い服を着た河本みなみが笑っていた。
「見てたのかよ」
にじんだ目の前をこすって、俺は苦笑いをしようとした、けど、笑えなかった。
ただただ目をこするばかりだ。
これは雨なんだと言い訳をしようにも、雨は小降りになってきた。
かっこわるいな、女の子の前で。しかもかわいい子の前で。私服の河本みなみは、いつもよりかわいく見えた。傘の下でサラサラと揺れている栗色のつやつやした髪の毛、くるくるとした大きな目。前、友達に、誰がいいかとか訊かれたときに、この子の名前を答えたんだっけ。あのとき思っていた以上に、河本みなみはかわいかった。
「泣けばいいよ。かっこよかったよ、さっきの菊池くん」
雨が上がる。
河本みなみの後ろに光が差す。
その姿はまるで、
「惚れ直しちゃった」
栗色の髪の毛が光に透けて、白い服がふわりと風を含んで、
「今すぐは無理だろうけど」
地上に降りてきた天使のように、
「振り向かせるから」
見えたんだ。



おわり。






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泣きじゃくって、足に力が入らない吉田佳奈を、なんとか家まで送り届けて、俺はぐちゃぐちゃに濡れたまま部屋に帰り、ベッドに倒れこんだ。
これから俺は、どうすればいいんだろう。
ただ、好きになっただけなのに。
好きになった女の子を、ただ苦しめただけなんて。
時間を巻き戻すことができるなら、俺はいい友達として、つかずはなれずの距離で彼女の笑顔を守ってあげることができたかもしれないのに。
いや、いい友達でなんかいつまでもいられない。限界だった。
俺には、あんなやり方しかできなかった。
それが、最悪のタイミングだったっていうだけだ。
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何もない表面だけの笑い。
どうして……終わらせてしまう?
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止まらない、ぐるぐると回っている。
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完全に、後押ししてる状態じゃないか。
ばかだ、俺。
だけど、笑顔が見たかった。自信なさげにつぶやく女の子が一番かわいいってことを知らせてあげたかった。好きになった女の子の、とびきりの笑顔が見たかった。
だからって言って……ばかだ、俺。
「え……なんで……」
赤くなって動揺する吉田佳奈。
わかっていたことだけど、わかっていたことだけど、今更の痛みが胸に降り注ぐ。
ばかだ、ホントばかだ、俺。
喉の奥から熱いものがぐっときそうになったから、慌てて笑って、吉田佳奈のきゃしゃな背中を叩く。
どんなに気持ちを込めたとしても、親愛の情しか伝わらない態度。
友達の距離。
何やってるんだよ、俺、ホントに。
「ありがと。菊池くんっていいひとだよね」
いいひと……いいひとって。大嫌いって言われるより、今の俺にはリアルでキツかった。
それでも吉田佳奈の笑顔を見ることができてよかったなんて思ってしまった俺は、世界中の誰が見てもばかな男だったろう。

そのころからだったか、そのまえからだったのか、吉田佳奈はよく甲斐と喋るようになっていた。
別につきあっているふうではなかったけど。
俺はぼんやりと、ふたりが喋っている横顔を見ていた。
さっさとつきあってしまえばいいのに。
そしたら、少しは楽になれるかもしれない。あきらめがつくっていうか。
なんで気付かないかな、なんで言わないかな、ふたりとも。
なんでこうやっていつまでも見てるかな、俺も。
早いとこあきらめて、次に行けばいいのにな。
女の子は教室の中にも外にもいっぱいいるわけだし。吉田佳奈よりかわいい子だって、それこそ河本みなみでもなんでも、たくさんいるわけだし。
だけど。あきらめきれないのは、まだ可能性を信じているせいか。
「いいひと」が「好きなひと」になることは。
まず、ないだろうけど。
100%ありえなくはないんじゃないかって、心のどこかで思ってる。
思ってはいるけど。めったにない話、だよな。



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そんなことは、最初からわかっていた。
だけど、わかったからといって、じゃあいいですよあきらめますよというほど、俺たちはまだオトナじゃないだろう。
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吉田佳奈。
めだつほどかわいいわけではない。
クラスで一番人気の女子は、いつもきゃっきゃはしゃいでいて、めだつ。髪の毛を巻いたりしていて、色つきのリップクリームなんかもつけていて、長いまつげを際立たせていて、ほんのりと何か香りをさせている。きっと、自分でもかわいいってことをわかっているのだろう、かわいさの見せ方を知っている。
それに比べて、吉田佳奈は地味だ。
運動部に入ってるわけでもないのに、潔いショートカット。誰の前でも大きなあくびなんか平気でしちゃってる。友達とふざけているときも、顔中くしゃくしゃにして大笑い。まるで色気ってものがない。
だけど、いつも背筋がすっと伸びている。
コイツ、ちゃんとしたら絶対キレイになるのにな。だけど、自覚がない。
話しても媚びたところがなくて、いつの間にかよく話すようになっていた。
仲のいいクラスメイト。吉田佳奈から見た俺はそんなものだろう。
俺から見てもそうだった。
いや、ちょっとだけ、それ以上だったか。
絶対キレイになると思って、なんとなく視線で追っていた。
「オマエ、誰がいいと思ってるの?」。友達に訊かれたときには、適当にクラスで3番目くらいにかわいい子の名前を答えておいたけど。面倒くさくないから。吉田佳奈を「いい」なんて言ったら、絶対変な噂をたてられる。
同じことを訊かれて、適当にとぼけた男がいた。
そいつ……甲斐は、いつもぼーっとしたヤツでつかみどころがない。
こうやって仲間内で打ち明けごっこみたいなくだらないことをしていても、乗ってこない。かといってつきあいが悪いわけでもない。話の途中で、気持ちがそれてしまったかのように、窓の外をぼーっと見ていたりする。
俺は、そんな甲斐が面白いと思って、時々見ていた。
だから気づいてしまった。
甲斐の視線は、よく吉田佳奈を捕らえている。
それとなく、さりげなく。
そのときだけ、瞳に強い意志を持って。
……好き、なんだ。
人の恋に気づくと、俺は妙にうろたえた。きっと、気づいているのは俺だけだ。甲斐は、それくらい静かに、だけど熱く、吉田佳奈を見つめている。
そんなふうに見ているくらいなら、打ち明ければいいものを。
なんだかむしゃくしゃする。
腹が立って、俺は、甲斐に見せ付けるように吉田佳奈と親しげに喋ってみた。そのときの甲斐の目は、俺を通り越して、吉田佳奈だけを映しているようだった。
後から俺は、少し落ち込んだ。
俺は、ガキか。

俺は、心配だったんだ。
甲斐と吉田佳奈は、どこか似ている。同じ空気を感じる。
吉田佳奈が気づいてしまったらどうしよう。
それは、あせりだった。
気づかせてはいけない。
俺はますますおどけて吉田佳奈に話しかけ、俺と吉田佳奈はますます「友達」になっていた。
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