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次の日も雨だった。
カナは、赤い傘をさして帰った。
いつもいつも僕とふざけあうほど、暇でもないのだろう。
今日は、僕の左肩は、濡れない。
だけど、だからどうしたというのだ。濡れないことより大切なことを、僕は知ってしまった。
横顔しか見ることができなかった、臆病な僕。今は、笑いながら話すことができる。でも、僕はまだ臆病だ。もし僕に勇気があるなら、自分から、一緒に帰ろうと誘えるはずだから。
もし明日も雨が降ったら、今度は僕が誘ってみよう。
さし心地悪い傘だけど、入っていかないか?
…変な誘い方だな。
もうちょっとマシで、気が利いてて、カナが顔をくしゃっとして笑い出すような、カッコイイ誘い方ってないのかな?
そんなことをぼんやりと考えながら、昨日はカナと歩いた道をなぞるように歩いている。
ここでカナが僕の右腕に触れて心臓が飛び出すくらいどきどきしたんだとか、ここでカナが道端で濡れている花を見て「寒そうだね」って言ったんだとか、小さなことを反芻してみる。
僕の胸の中は、カナでいっぱい、いっぱいだ。
だから、信号の向こうに赤い傘が揺れていたとき、本物のカナがいるとは一瞬、思わなかった。
僕が作り出した幻だと思った。
それほどに幻想的だった。
雨に煙った空気のなかひっそりと咲いていて、それはとてもカナらしいと思って、僕はそのことを早くカナに伝えようと思って、信号を渡った。
でも、気づくと、花は一輪じゃあなかった。
赤い傘の隣には、大きな黒い傘。
男物。
あれは。
見慣れたはずのカナの横顔が、いつもと違って見えた。
伏せたまつげが長くて、僕はこんなときだというのに、カナに見とれずにはいられなかった。
見とれていたせいか、全てがコマ送りで見えた。
赤い花が散るようにカナの傘がゆっくり落ちて、カナは黒い傘の中に引き込まれて、カナの困惑した瞳が揺れて。
そして……。
僕は。
いったい、どうしたというのだろう。
何をやっているのだろう。
気がつくと、ふたりに近寄っていて、落ちていた赤い傘を拾い上げていた。
「…あ…」
カナが慌てて、黒い傘から離れる。
だめじゃないか、離れたら濡れちゃうだろ?
「ハイ、これ」
赤い傘をさしかける。カナが濡れたりしないように。そして、新しいビニール傘、僕がひとりでさしていた傘、昨日はカナと一緒に入った、さし心地の悪い、だけど世界で一番素敵な傘も一緒に差し出した。
「ありがとう、楽しかった」
「何、言って……」
カナの声は、最後まで聞いていない。
僕は、走った。
初めてカナと一緒に帰ったあの日と同じくらい、いや、それ以上のスピードで走った。
あと何百キロメートルでも走れると思った。
いや、走りたいと思った。
走って走って、ずぶ濡れになって、肺炎にでもなればいい。
世界中が雨で満たされて、そのまま雨に溺れてしまえばいいと思った。

その次の日、偶然にも席替えがあって、僕とカナは教室のはじとはじに離れた。
これでよかったんだ。
カナが何か言いたそうに僕を見ていたのがわかったけど、僕は眠たいふりをして、机に顔を伏せた。
本当は少しも眠くなかったけど。
前の晩も全然眠れなかったのに、全然眠くないのだけど。
目を閉じると、黒い傘がまぶたの裏に浮かぶ。
戸惑ったカナの横顔も。
あのときの全てが、浮かぶ。
だから僕は目を開けたまま、机に顔を伏せていた。



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雨の日。
無意識に、いや意識的に。僕は横目でカナの荷物を盗み見る。
赤い傘。ちゃんと持ってきている。
そりゃそうだ、今日は朝から雨だった。
だけど、帰りがけ、カナはいつものように後ろ手に手を組んで、小首をかしげて、鼻の上にちょっとしわを寄せたいたずらっぽい笑顔で僕を覗き込んで、僕にだけ聞こえるような声で言った。
新しい傘のさし心地、試したいな。

毎日が雨でもいい。
僕はそう思った。
初めて一緒に帰ったあの日よりも、僕らの距離は近づいている。
時々、僕の右腕はカナの左腕にぶつかり、うれしいような、恥ずかしいような、申し訳ないような、晴れがましいような、ぐちゃぐちゃな気持ちになったけど、結局はうれしさが勝っていた。
傘からはみ出ている僕の左肩も、カナの右肩もめちゃめちゃ濡れたけど、それさえもふたりには笑いごとだった。
「すっげー、さし心地悪い傘」
「ひっどーい。そんなこと言うなら返してよ」
ふざけては、笑い合った。
笑うたびに、僕の右腕はカナの左腕にあたった。
このまんま雨が降り続けて、このまんま道が続けばいいと、思った。



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次の日。申し訳なさそうに、カナは2本のビニール傘を僕に手渡した。
「ごめんね、傘、昨日、壊しちゃって。これ、新しいの。使って」
曲がっていた2本の傘の骨が、見事にポキリと折れていた。
こんな壊れた傘、わざわざ持ってくることもないだろうに。
新しい傘も、律儀なまでに同じ透明のビニール傘。わざわざ、いいのに、そんなの。
「いや、いいよ。もともと壊れかけだったし」
「でも」
「じゃあ」
僕は不意に、昨日のカナの小さな冷たい手を思い出す。
「じゃあ、また君が傘を忘れたときには、この新しい傘を使うよ」
なんて気障なことを言ったものだろう。顔から火が吹き出そうだ。
だけどカナは、きっと僕より頬を赤くして、はにかんだ。

それから、僕はカナと親しくなった。
クラスメイトとして、だけど。
僕の胸の中には、横顔のカナよりたくさんの、僕のほうを向いたカナが詰まってきていた。
くしゃっとした笑顔、僕が意地悪なことを言うと少し下唇を突き出す癖、失敗したときにチラッと見せる赤い舌、いたずらっぽくくるくると動く瞳。
それだけじゃあない。たくさんの言葉たち、笑い声、僕のノートのすみっこに勝手に書いてあった落書き、貸してくれたCDや、全てが。
いっぱい、いっぱい詰まりすぎて、はちきれそうだ。
はちきれそうだったんだ。



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カナと僕は、隣の席だった。
さらさらとしたショートヘアに、特別大きいわけじゃないけど意志の強い瞳。陶器のように滑らかなあごのライン。きゃしゃな手首。
たぶん、初めて見たときから、僕はカナに心魅かれていた。
でも、話しかけることさえできなくて……いつも横顔だけ見ていた。
友達とふざけて笑い合う顔、難しい問題を解いているときにちょっと尖らせる癖のある唇、あくびをしたあとのほわんとした涙目。
いつの間にか、僕の胸の中にはカナの横顔がいっぱいに詰まっていた。
だから、僕の真正面に、後ろ手に手を組んで小首をかしげたカナが、鼻の上にちょっとしわを寄せたいたずらっぽい笑顔を浮かべて立っていたとき、一瞬それが誰だかわからなかった。
「キミって、いっつもぼんやりしてるよね」
そういえば、カナの声は少し低い。そんなことをぼんやり考えていて、僕は返事もできなかった。
ただただぼーっとしている僕のことがよっぽどおかしかったのだろう、カナはケラケラと笑い声を立てた。
「あのね、雨が降ってきちゃって」
正面から見ると、ほんの少しそばかすがあるのがわかる。
「もし傘、持ってるなら」
窓の外を指している細い指。強く握ったら、折れてしまうんじゃあないだろうか?
「駅まで、入れてってくれない?」

いままで、こんなに緊張したことがあるのだろうか。
右手と右足が一緒に出たりしないように細心の注意を払いながら、僕はカナに傘をさしかける。
壊れかけた、安物のビニール傘。2本も骨がぐにゃりと曲がっている、そんな傘。よりによって。
もっといい傘を持ってきとけばよかった。
それに、この傘は小さすぎる。カナが濡れてしまう。
緊張して傘をさしている僕を、カナはくすくす笑って覗き込んだ。
「ちゃんとささないと、キミが濡れちゃうよ」
そう言って、カナは僕から傘を奪った。そして、僕にさしかけてくれた。
カッコイイこと言って、カナから傘を取り返せたらよかったけど。情けないけど僕は、されるがままだ。
横顔しか知らなかった女の子。正面から見る勇気さえなかった僕。
カナの話すことに、ああ、とか、うう、とか、ばかみたいな返事を繰りかえしながら、僕の耳はカナの発するどんな一言も、吐息の一つまで漏らすまいと必死で機能していた。きっと、このときの僕の耳は、どんな動物よりも敏感に反応していたに違いない。いや、耳ばかりじゃなく、目も、鼻も、五感の全てが、それぞれのスペシャリストよりも発達していただろう。
「あ、もう駅」
だけど、こんな夢のような出来事にも終わりはある。
「入れてくれてありがと」
カナは傘を綺麗にたたんで、僕に返してくれた。
僕だけに向けられた笑顔。
そのとき。
僕は、自分自身に驚いた。そんな勇気があるなんて。
僕はカナの手を取ると、その手に傘を握らせた。
その手は、いままでに触れたどんなものより、小さく、冷たく、愛しかった。
「これ、使ってよ」
「え、でも、キミが…」
「大丈夫。駅からすぐ近くなんだ」
そう言って、カナの手を強くぎゅっと握って、僕は駅の外に駆け出した。
「ありがとう!」
カナが、いっぱいの笑顔で、僕に手を振っていた。
さっきまでの笑顔より、全然笑顔だ。
僕の家は、この駅の近くなんかじゃ全然ない。だから、僕はずぶ濡れになってしまって、だけど僕はあと何十キロメートルでも走っていけるような気分だった。いや、あの雨雲の向こうまで飛んでいくことさえできるような気分だった。
あの日から、僕は、雨の日が好きになった



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と、言い切ってしまうことはカンタンだ。
だいいち、じめじめして暗くって、憂鬱じゃないか。
だけど、そんな理由じゃないんだ。
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昼過ぎから、急にザーザー降り出した雨。
僕は壊れたビニール傘をさしながら、帰り道、自転車をぶっ飛ばしていた。
今朝の天気予報で、雨が降る、なんて言ってたか?
……言ってた、ような気がする。じゃあ、こんな日に自転車で来た僕が悪いのか。
制服のシャツが、ズボンが、次第に水を含んで重くなる。
風がそんなにないのが救いだが、よりによって緩い上り坂だ。ダブルの意味で、足はどんどん重くなる。
雨は、ますますどしゃ降り。骨の折れた傘なんて、全然役に立ちゃあしない。
「きゃっ!」「うわっ!」
軽い衝撃。
ヤバイ、何か、撥ねた!?
自転車を降りて、駆け寄る。
「す、すみません、大丈夫……で……」
なんだ、こりゃ?
小さい人の形の……人形? え? 動いてる? 足をさすってる?
「痛いなぁ、気をつけてよ。って、上から降ってきたら、わかんないか」
僕を軽く睨んで、また足に目をやって…人形が? いや、人形じゃないのか?
「何ぼ-っと見てるのよ。女の子が倒れてたら、起こしてあげるものでしょう?」
「あ、ああ、ハイ……」
手を貸す……けど。コレ。こどもでもないだろう。体長約50センチメートル。
ま、ま、まさか化け物か!?
それ、は立ち上がると、犬かなんかのようにぷるぷると体を震わせて水しぶきを撒き散らし、その背中の羽を……って。羽!?
「ああ、アタシ、天使なの」
はァ!?
……あ、夢だ。夢だろう。夢だよな。
こんなずぶ濡れの夢があるのかどうかビミョーだけど。こんな現実のほうがないだろう。
「全く、やんなっちゃう。雨に濡れると、羽が重くなって落っこちちゃうのよね」
ブツブツ呟きながら、羽を繕っている。
ははは、天使が雨と一緒に降ってくるんだ。変なの。
そりゃそうだ、夢だから。これは夢なんだもんな。変な夢。
僕もブツブツ呟きながら、その『自称・天使』に傘をさしかける。
骨が2本も折れてぶらぶらしてる。こんな傘、さっさと捨ててしまえばよかったのに、後生大事にロッカーの奥底に閉じ込めておいた。夢にまで出てきてしまうのか、こんな傘が。
僕にとって、雨と言えばこの傘、なんだろうか? いまだに、心の奥底では。
『自称・天使』は、水鳥のように羽を整えている。その横顔がカナに似て……夢とはいえ、僕もしつこいな。
あれからもう、3カ月も経っているのに……。



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だけど、こんな夢のような出来事にも終わりはある。
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僕だけに向けられた笑顔。
そのとき。
僕は、自分自身に驚いた。そんな勇気があるなんて。
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「ごめんね、傘、昨日、壊しちゃって。これ、新しいの。使って」
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「いや、いいよ。もともと壊れかけだったし」
「でも」
「じゃあ」
僕は不意に、昨日のカナの小さな冷たい手を思い出す。
「じゃあ、また君が傘を忘れたときには、この新しい傘を使うよ」
なんて気障なことを言ったものだろう。顔から火が吹き出そうだ。
だけどカナは、きっと僕より頬を赤くして、はにかんだ。


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だけど、帰りがけ、カナはいつものように後ろ手に手を組んで、小首をかしげて、鼻の上にちょっとしわを寄せたいたずらっぽい笑顔で僕を覗き込んで、僕にだけ聞こえるような声で言った。
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笑うたびに、僕の右腕はカナの左腕にあたった。
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そして……。
僕は。
いったい、どうしたというのだろう。
何をやっているのだろう。
気がつくと、ふたりに近寄っていて、落ちていた赤い傘を拾い上げていた。
「……あ……」
カナが慌てて、黒い傘から離れる。
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「ありがとう、楽しかった」
「何、言って……」
カナの声は、最後まで聞いていない。
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本当は少しも眠くなかったけど。
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目を閉じると、黒い傘がまぶたの裏に浮かぶ。
戸惑ったカナの横顔も。
あのときの全てが、浮かぶ。
だから僕は目を開けたまま、机に顔を伏せていた。


あれから3カ月。
昼過ぎから急に降り出した雨。
傘を持ってきていなかった僕は、しょうがなくロッカーに置きっぱなしにしていた傘を出したんだ。
あの日、カナと入った傘。
あの日、カナが壊した傘。
こんな傘、さしたってささなくたって変わらないだろう。
だけどこんなもの、いつまでも置きっぱなしにしていたら、きっといつまでも前に進めない。
今日使って、捨ててしまおう。
カナへの想いを断ち切ろう。
雨に流してしまおう。
そう思っていたら。


「何、ぼんやりしてるの?」
気がつくと、『自称・天使』が後ろ手に手を組んで、小首をかしげて、僕を見ていた。
それは、カナがいつもしていた仕草だったから、僕の胸は痛んだ。
カナに似ていたから、カナと同じ仕草をするから、僕の胸からはぱんぱんに詰まったまま行き場を失っていたカナの記憶が溢れ出した。
それと一緒に、僕の瞳からも、行き場のなかった想いが溢れ出した。
そんな僕を見て、『自称・天使』は鼻の上にちょっとしわを寄せていたずらっぽく笑った。
「もうすぐ雨が止むね」
止むのか、この雨が。止むもんか、この雨は。
雨なんか、大嫌いだ。
雨なんか、死んでしまえ。
「傘」
『自称・天使』は壊れた傘の下で、羽をふぁさふぁさと動かした。
その羽はあまりに白くて、まるで天使の羽のようだった……あ、天使なんだっけ。
「入れてくれてありがと」
カナと同じ話し方をする。
あのときのカナと、全部が一緒だ。少し低い声も、話し方も、表情も。
全部がカナと同じなんだ。僕の作り出した幻は。
「お礼に、1個、いいことしたげるよ」
「何だよ」
そういえばずいぶん長い夢だ、と思う。
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それに、カナのことを思い出しすぎた。
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「あっちに、虹が出る」
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僕は、こんなに弱いカナを知らない。胸が痛む。
だから、やけにリアルで……
もう、夢でも何でもいい。カナが僕を呼んでくれるなら。
僕はめちゃくちゃにカナを抱きしめる。
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「傘のお礼だよ」
声は遠くなる。上だ。声は上にのぼってゆく。
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いや、今は考えるのを止めておこう。『自称・天使』の傘のお礼、いや、カナからの傘のお礼?
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「……考えてませんでした」

温かな湯気をたてているコーヒーをはさんで、僕たちは向かい合わせに座っている。
「ここじゃあなんだから」
そういって、彼女は僕を近くのマックまで引っ張ってきた。そして、勝手にコーヒーを頼んで、僕にくれた。ありがたいけど、僕はコーヒーが飲めない。とりあえず、手を温めるのに使う。
「まずは、呼び方を決めなきゃならないですね」
そこからですか。
ぽかんとしている僕をよそに、彼女はコーヒーをふぅふぅと吹いて、笑顔を見せる。人懐っこい目をした子だ。
「クン付けで呼ぶのが好きだなぁ、あたしは」
さっきはあんなにせっぱつまった顔をしていたのに。
不思議な気持ちで、僕は彼女を見た。どこかで逢ったことがあるだろうか。くるくると巻いている白いマフラーもそのままに、彼女は小首をかしげている。知らない子、だよな。初対面だ。不思議な子だなぁ。
どういうつもりなんだろう。でもとりあえず、ここまで来た以上、30分はつきあわないと。
とりあえず、自己紹介、しておかなきゃ。
「決めた。みーくん、って、呼びます」
え。
名前を言う、直前だった。彼女が突然、言い出した。
なんで? 偶然、僕の苗字は「宮本」だけど。知っているのか。それにしても、そんな呼び方は初めてだ。
君は、いったい?
「じゃあみーくん、そろそろ行こうか」
戸惑っている僕を尻目に、彼女は立ち上がる。そして、人差し指をたてて、そのまま僕に突き出す。
「30分は短いよ。急がなくちゃ」

店を出ると、彼女は僕の右手をきゅっと握ってきた。
「ごめんね、みーくん。コーヒー飲めないんだね」
「あ、いや、僕が言わなかったから……」
ちょっと緊張して、右手が汗ばんだ気がする。
完全に、彼女のペースだ。これからどうするのか、どこに行くのか、僕は何も知らされないまま、彼女のおしゃべりに返事をしている。周りから見たら、こんな僕らでも初々しいカップルに見えているのだろう。女の子にリードされている、オクテな男。そんなんじゃないのに。
犬より猫が好き。色は白がいちばん好き。コーヒーよりもココアが好き、特にこんな寒い日には。マシュマロを浮かせたらおいしいよね。季節は冬が好きだなぁ、寒いけど。彼女の話は止まらない。白い息を吐きながら、とりとめのない話をどんどん続けて、僕はただただ頷くばかり。でも、訊きたいことは僕にだってある。
「名前、なんていうんですか」
彼女の話が途切れた隙に問いかけた。
「みーくん、だめだよ」
「ハイ?」
「恋人なんだから、敬語はだめだよ」
いたずらっぽい目で僕を軽く睨むと、人差し指でバツを作って見せた。
そしてまた僕の右手をつなぐと、言った。
「すかーれっと・おはら」
「え?」
「名前。訊いたでしょ?」
すました顔をしている彼女を見て、僕は吹き出してしまった。
何を言ってるんだか。
「そんなわけないだろ。なんて呼べばいいんだよ」
「みーくんの好きに呼んでいいよ」
好きに、か。
僕も名前を名乗らないまま、勝手に「みーくん」なんて呼ばれていたんだっけ。
名前なんかどうだっていいか。たった30分のつきあいだ。
「それより、みーくん。急がなくちゃ。時間がないよ、たどり着けなくなっちゃう」
僕の手を引っ張って、走り始める彼女。
僕は、元気のいい犬の散歩をしているような気持ちで、小走りで後をついていく。
たった30分。そう思うと、なんだか手放すのが惜しいような気もする。彼女の話す、とりとめのないこと、一晩眠ったら忘れてしまうようなどうでもいい話に耳を傾けながら、僕は彼女を見ていた。笑うと覗く八重歯や、軽い癖のある前髪や、寒さで淡いピンク色に染まった耳朶や、そんなものを眺めていた。
「到着」
彼女が足を止めたのは、街のシンボルタワーの前だった。
見慣れたそれは、クリスマス前のイルミネーションに彩られ、キラキラと輝いていた。きれい、と呟いて見上げる彼女の目も、同じようにキラキラと輝いていて、僕は思わず握られた右手を強く握り返した。
「ここに、来たかったの?」
「うん、みーくんと一緒に、見たかった」
さっきまでずっと喋り続けていたのが嘘のように、彼女は黙っている。
心地よい、沈黙だ。
「寒くない? 中、入る? 上にのぼってみる?」
彼女はあるかなしかの微笑みで、首を横に振る。
「上につく前に、30分が終わっちゃう」
上に行くエレベータの前にずっとつながる人の列。
「別にぴったり30分じゃなくても……」
彼女は黙って首を振る。そしてまた、タワーを見上げる。
彼女の視線を追うと、いやでもタワーの時計が目に入る。
30分だけ恋人になってくださいと言われたときから、もう25分が経っていた。
あと、5分。
体が冷えてくる。吐く息が白い。つながれた右手だけが、僕のものじゃないように温かい。
そのとき、空から、贈り物。
ふわふわとした雪が落ちてきた。
ゆっくりと落ちてくるそれを見上げていると、自分が宙に浮かんでいくような、不思議な気分になる。
「幸せだなぁ……」
彼女の口から、雪よりも白い息とことばが漏れてくる。
僕は訊き返したかったけれど、やめた。僕も、不思議な幸せを感じていた。
今まで経験したことがないし、もうこれからも経験することがないかもしれない、不思議な、だけど確かに、これもひとつの幸せなんだろう。
何も知らない、何が目的なのかもわからない、この女の子に振り回されて。でも今右側にいるこの女の子のことを、本当の恋人のようにさえ思っていた。それほどに、右側のぬくもりを愛しく感じている。「みーくん」という呼び方さえ、耳慣れたものに感じているくらいに。
一緒にいるのは、たったの30分だというのに。
「ねえ、みーくん」
「ん?」
「目、つぶって」
もしかして?
だけど、こんなところで?
期待と照れくささとでどきどきしながら、僕は言われたとおり目を閉じた。
そんな僕の耳に届く「絶対、目開けちゃだめだよ」という彼女の声、それから微かなシュッという音と、広がっていく甘い香り。
「何?」
「魔法をかけたの。きっとみーくんは、今日のことをすぐに忘れる。忘れていいの。だけど、この香りをどこかで感じたら、今日のことを思い出す。そのときはいつも、笑っていて?」
30分間、ずっと右側にあった甘い香り。
今は僕の周りを取り巻いている。ふわふわと。彼女の白いマフラーのように。
「目、開けてもいい?」
返事はない。
目を開けると、彼女はもういなかった。タワーの時計を見上げると、30分が過ぎていた。
雪も止んで、甘い香りも、いつの間にか消えていた。


夢だったのかもしれない。
あの日、確かに僕の右手は、温かかったような、気がするけれど。


それから1年。
今、僕にはつきあって3ヶ月になる女の子がいる。
同じ学校の、1コ下の女の子とは、友達の紹介で知り合った。
いつも遅刻しがちな彼女を、待ち合わせた店の前でぼんやり待っているうちに、ちらちらと雪が降ってきた。
僕は白い息を吐きながら、もうすぐ駆けてくるはずの小さな体を思い出していた。
「ごめんね、また遅刻しちゃった」
ほら、ね。
僕を見つけて、まっすぐに走ってくる笑顔。これが見たくて、僕はいつも彼女を待っているんだ。
「今日はどうしようか」
「う~ん。どうしよう。しんちゃんはどうしたい?」
「じゃあ、イルミネーションでも見に行こうか」
僕は、彼女の右手をとって、歩き出す。
もうすぐクリスマス、街はキラキラとした灯りに彩られていた。道を行くどのカップルも、幸せそうに笑っていた。僕たちもきっと、そう見えているのだろう。彼女がうれしそうに「一緒にイルミネーションを見るのが夢だったの」なんてかわいいことを言うから、ついつい僕も笑顔になる。
風が少し強くなってきたから、僕たちは歩くスピードを少し速めた。僕たちはとりとめのない話をして、笑い合った。白い息が弾む。つないだ手が温かい。
15分くらいで、街のシンボルタワーの前に着いた。展望台から見下したら、灯りのともった街並みがきっと綺麗だろう。
カップルだらけのざわめきのなか、イルミネーションで縁取られたタワーを見上げる。
キラキラした光、ふわふわした雪、大好きな女の子。
心がしんとする。
僕たちだけ、雑踏から切り離されて、空に浮かんでいく気分だ。
「幸せだなぁ」
ふと呟いたときに、僕の周りをやわらかく、甘い香りが取り巻いた。
耳の奥に、声が届く。「みーくん」。
僕ははっとして、周りを見回す。
なんで今まで思い出さなかったのだろう。今日はあの日と、こんなにも、似ている。
あの不思議な女の子が僕の右側にいないだけだ。
笑うと覗く八重歯や、軽い癖のある前髪や、寒さで淡いピンク色に染まった耳朶や、タワーを見上げてキラキラと輝いていた瞳や、いろいろな彼女が記憶の箱の中から溢れ出してくる。彼女がかけた魔法。僕にかかっている、とけない魔法。甘い香りで開く、記憶の扉。
どこにいる? どこかで僕を見ている? あのとき、急に目の前に現れた、せっぱつまった表情。真っ直ぐに僕だけを写していた、あの日の彼女。
急にキョロキョロし始めた僕のことを、彼女が不思議そうに見上げた。
「しんちゃん、どうかした?」
いない。いるわけない。いや、もしいたとしても。
僕は彼女の右手を、しっかりと握る。
「何でもないよ。中、入ろうか。寒いし」
笑顔の彼女の手を引いて、中に入る。
僕はこうやって幸せにしている。笑っているよ。君はどうだい?
街のどこかからまた不意に飛び出してきそうな気もするし、もう二度と会えないような気もする。
また少ししたら、あの日のことはまた記憶の箱の中に閉じ込められて、思い出せなくなる。だけど、あの香りをどこかで感じたら、きっとまた懐かしく思い出すんだ。忘れたりしない、どこにいても、誰といても。思い出しては、不思議な出来事に微笑んでしまう。いつだって幸せでいなくちゃ、と思う。それこそが、君がかけてくれた魔法だと思うから。名前も知らない君がくれたプレゼント。この魔法は、いつまでも、とけない。

あの日、上ることができなかった展望台に、僕たちは行った。
眼下にはきらめくイルミネーション。キラキラとしている中に、ひなびた土産物屋があった。
タワーの置物や、絵葉書なんかが置いてある、ありがちな土産物屋。どういうわけか、古い映画のポスターも並べて貼ってあった。
すみっこが折れてて、いつから貼っているのかもわからないけど、そのなかの「風とともに去りぬ」のビビアン・リーが、暖房の風に揺れて、僕を見て、微笑んでいた。



おしまい







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